(映画評)永い言い訳

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・弔いは生き残った人のためにある

「ながいいいわけ」と聞いた時どんな言い訳を想像するだろうか。

長ったらしく見苦しい。そんな言い訳を想像するだろうか。

監督:西川美和は「ながい」に永遠の「永」の字を当てた。

映画の題は「永い言い訳」という。

永遠に言い訳をするとは、どういうことなのか。

言い訳はその場を取り繕うというイメージで語られることが多い。しかし、それを永遠に続けるとなれば話は変わってくる。

永い言い訳とは弔いのことなのでは、と思った。

たった100年足らずの人生で、永遠いう言葉が意味するとすれば、それは以外ないだろう。

「弔い」という言葉を辞書で引くと

「死者の霊を慰めること」

とある。

死者の霊が慰められたかどうか僕たちに知るすべはない。でも有史以来、人は死者を弔うことを止めない。

死者を弔うという行為は自分への言い訳なんだろう。弔うという行為を通して、人は自分と対峙する。

西川監督はこの映画を通して何かに対する弔いをしたかったではないだろうか。そんなことを書いてみたいと思う。

・あらすじ

主人公である衣笠幸男(通称:サチオ君)は、美容師の妻、夏子(なつこ)と2人暮らしだ。

サチオの職業は、TVのクイズ番組にも出演するような人気作家。サチオと夏子の夫婦中はすっかり冷めきっており、サチオは若い女と不倫をしている。

ある日、夏子は旧来の友人である大宮ゆきとともにでかけた旅行中に、バスが崖から転落、突然命を奪われる。

突然の訃報にも、なぜか悲しむことの「できない」、サチオ。なぜなら訃報を受けたとき、サチオは恋人と行為の最中だったのだ。

告別式にて、サチオは夏子の友人ゆきの旦那、妻を失ったという同じ境遇の大宮陽一と出会う。

トラック運転手で、日夜家を空けている陽一に代わり、サチオが、陽一の子供、真平(しんぺい)と灯(あかり)の面倒をみることになるのだが。。

あらすじはここまで。続きは映画を見てほしい。

・生きるのに必要なのは自転車をこぎ続ける力

サチオ・陽一・真平・灯がレストランで食事をするシーンがある。

食事中、急に目をこすりだす灯。時間が経つと灯の目の周りは赤くはれ上がり、息苦しそうに倒れ込む。

兄である真平は「アナフィラキシーだ!お父さんエピネフリン持ってきてないの!?」と叫ぶ。

灯が食べたものの中に、アレルゲン物質であるカニが入っていたのだ。

母の不在が引き起こした事態にたじろぐサチオ。エピネフリンはもってきていないと、すぐ病院へ向かう陽一。

西川はこのシーンでリアルな子育てを描きだした。

日常生活の中で子供が親に要求してくるもの(子供自身が実際にメッセージを発していないものを含めて)は絶対的な必要性を纏っている。

子供は自然そのものだ。食べてはいけないものを食べると簡単に命を落とす。食べさせなくても死ぬ。

子供たちのリアルな要求を受け止めて、毎日オペレーションをこなしているのは母親だ。

僕も子育てをしているがと対峙し続ける時に必要なのは、理論でも技術でもない。

それにはキツくても自転車で坂道をこぎ続ける力が必要だ。そしてその子育てに必要な力は、子育てをすることによってしか鍛えられない。

サチオは子供たちと向き合う力を身に着けながら、同時に喜びも知っていくことになる。

サチオは愛することを、初めて知ることになる。

・愛することは別れを内包している

他者を深く愛することは、同時にその他者との断絶を内包している。

サチオは夏子を愛していないのではなかった。失うことの恐怖から、夏子を愛さなかった

手に入れたものは失うことはないと思い込もうとしていた。皮肉なことに、死という永遠の断絶をきっかけに、サチオは愛したかったが愛さなかった自分の感情に気がついていく。

陽一たちとの出会いと経験を通して、サチオは愛すること=他者との断絶に向き合う力を身につけていく。そしてやっと夏子と向き合うことになる。

・女性不在の物語

さて、冒頭でこの映画を通して、西川はなにかを弔おうとしたのではないかと述べた。

西川が弔ったのは映画という芸術そのものであり、男性は芸術のモチーフではないだろうか。そんな風に考えた。

西川は東日本大震災後、芸術のなせることについて思い悩んだアーティストの一人だ。

震災が引き起こした死や被害が要求するのは、リアルな支援だ。食事、家、移動手段、生活の術のすべてが、破壊されてしまった。

母(生活)の不在時に、男(芸術)には、何ができるのか。

西川の中でおそらく男(芸術)は一度死んだ。そして西川はその弔いとして芸術にできることは何かというテーマに挑んだのではないだろうか。

映画中では、たびたび生活するものへの賛美が垣間見える。子供との生活の中でごはんを炊いたり、一緒に買い物に行く、塾帰りのお兄ちゃんを迎えにいく、そんなシーンがちりばめれている。

サチオと陽一が喧嘩をするシーンがある。そのシーン、映画の音響は鍋がぐつぐつ煮える音だったりする。男たちが議論をする中でも、生活の音はずっと世界の中心に横たわっている。

生活に無頓着な男たちの髪の毛はどんどん伸びていく。劇中で、髪の毛を切るのは、一番小さな女の子の「灯」だけだ。サチオはいつも美容師の夏子に髪を切ってもらっていた。

また、劇中のピアノ曲にもカラクリがある。物語の進行に合わせて、だんだんとうまくなっているのだ。

こういうメタフォリカルな表現を通して、西川は生活者への賛美芸術(男)ができることへの疑い、そして、かすかな希望を描いている。

それが** 永い言い訳**という映画だ。

ハイライトとなるシーン。サチオは涙を流しながら、ノートに筆を走らせる。サチオは、生活の中で体験したことを魂を震わせながら芸術に昇華させた。

このワンシーンこそ、芸術への弔いの中で西川が見出した芸術の新たな生きる道だったんだろう。

・生きるとは、死なない為の言い訳

生きるとは、人に自慢できるような大きな目標を達成することなんだろうか。自分の人生はそれほど大それたものなんだろうか。

僕には妻と娘がいる。2018年の秋には、第2子も誕生予定だ。

生きる目標なんて大それたことは言えないけれど、僕には妻や子どもを残してはいけないので死ねない理由たくさんある。

家族と数少ない友人の存在が、僕の死なない理由だ。

生きるとは、死なないための言い訳なのかもしれない。


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