「くも膜下出血」と「父の生と死」と「安楽死」について考えた

care

これは雑記だ。いつものブログ記事とは違う。だから敬語も使わない。

今日はこんな動画を見た。

YouTube

TEDの動画。4時間53分から幡野広志さんという方がお話しされている。幡野さんは血液がん患者だ。年齢は36歳。ほぼ同世代と言っていい。

「人は幸せを享受するために生きている」

幡野さんは、「自由を奪われること」に耐えられない。自由はアイデンティティの基礎だ、と言う。

死を目の前にした言葉は重い。

僕も自由に生きたい、そう思った。

「自由を奪うのは、人間の尊厳を奪う行為」

確かにそう思った。

——————–✂

自分の幸せや生き方は自分で考え決めるべきだ

今日ライブ配信されたこのTED動画には反響があり、こんな力強い声が、iphoneのタイムラインに飛び交っている。

「でも…ほんとにそうなのかな?」と僕は思った。

僕自身は、27歳から31歳になるまで、介護職をしていた。定員が10名の小規模デイサービスで、お泊りサービスも併設していた。介護保険の中で一番重度な「要介護5」の方がたくさん来ており、中にはずっと施設内に泊っている方もいた。

そこにいたのは「生かされている命」だった。

生かされている命

要介護5の利用者さんが2名いて、ほぼうちの施設に泊っていた。(記録上は帰っている「テイ」にしてね)

彼女たちの命は、明らかに僕たちの手の中にあった。

僕たちが食事を与えるのをやめてしまったら、死ぬ。

保清や皮膚のケアを怠ったら、死ぬ。

うっかりベッドへの移乗をミスして、体を落としてしまったら。

死ぬ

介護とは、常に「生と死の境界線」を意識しながらする仕事だ。死が肉薄しているからこそ、生は輪郭線を、明確に浮き出たせる。

幡野さんのメッセージからすると、彼らは「自由を奪われた」状態でしょう。

僕には、果たして彼ら彼女らが尊厳を失っていたのか。それはわからない。

だって、彼ら彼女らはしゃべることができないから。でも、和太鼓を見て流したあの涙は。おいしいものを食べている時のあの笑顔は。

果たして、「自分で選択すること」を失った人は、尊厳を取り戻せないのか。

僕はその答えは持っていない。

でも、もう少し考える余地があるんじゃないだろうかと思う。

父は尊厳を持って生きているのか

僕の父は、2014年にくも膜下出血で倒れた。そこから約5年間、寝たきりの状態だ。話すことも、デイサービスで見てきた高齢者の方々とも違い、口から食べることすら叶わない。

時々病院に行って顔を見る。

僕は「お父さん」と呼びかける。長女は「じいじ」と彼を呼んでいる。

父は眠っていることもあるが、目を開けていることも多い。何かを「見ている」という感じはなく、下から上に向かって、機械的に動いているみたいだ。その機械的な動きをみて「ほら、じいじ、〇〇が来てるってわかってるわ。」とか、母に関しては借金を残して倒れた父に対して「ほんまに頭はたいたろか!」と冗談を飛ばしたりもする。「ほら、ドキッとしているで」と僕たちは笑う。

僕たち家族は「胃ろう」にするという選択をした。「胃ろう」とは、胃に穴を変えて、チューブを通し、そこから流動食を流し込むという医療的な措置のことだ。

当時は「いつか口から食べられるようになったら、ふさぐことができる」ということを聞いて、胃ろうを選択した。僕が。それは家族の総意のようであって、介護職として知識を持っていた僕が選択した。

くも膜下出血の再発を防ぐための「コイル塞栓術」というのも受けてもらった。当時は幡野さんのいうように「ちょっとでも長く生きてほしい」そんな想いは正直なかった。そんな判断をできる精神状況ではない。

医師から言われたことを「断る」思考力なんてないのだ。

先に書いた通り、父の意識は戻ることはなかった。

今では、体はすっかり拘縮している。

でも。

病院に行く度に髭は伸び、髪の毛は伸び(頭頂部はあいかわらずだけど)、鼻毛も伸びている。肌の艶なんてヘビースモーカーだった当時よりよっぽどいい。

でも、彼は果たして「生きている」んだろうか。自由はない。動けない。食べられない。

かろうじて息だけはできている。そんな彼に「尊厳」はないんだろうか。僕たち家族の「選択」は彼を苦しめているんだろうか。

それを知る日は、たぶんもう来ない。

必要なのは「選択肢」だ

自由を奪われる前に、死にたい。

それは幡野さんの強い意志だ。

…でも。

もちろん、そうでない生き方があってもいい。そのことを幡野さんも否定はしないだろう。

僕はどうだろう。死を前にしたら。

妻に何というだろう。2人の娘を前にして、自由にならなくなったら死なせてくれと言えるだろうか。自分の不自由があっても、苦しんでも、娘の成長は見届けたい、そう思うだろうか。思わないだろうか。

大事なのは、その人それぞれの選択が尊重されることだ。

そして今の日本の医療では、「生かされる」道しかないんだろう。そして、僕もただ「生かされる」だけの命をなるべく尊厳を保った形で支える仕事をしてきた。高齢者のみなさんは、「選択」したわけではないだろう。

「選択」をするには、選択できる時から、その思考能力を失う前から考え、伝えることが必要だ。

実は、病気にならなくても「死」はすぐ隣にある。

3.11。東日本大震災が起こった時、僕は東京にいて、ビルが崩壊して死んでしまうと思った。

何が尊厳なのか、生きているうちに語るしかないんだと思う。それは死に方を語ることでもある。

もっと「死」を語るべきなのかもしれない。それは決して怖いことではなく、実は希望に満ちた行為ではないだろうか。


コメント